はかなくきれいなもの




 俺が思っていたその人は。
 綺麗で、腹黒で、『お嬢様』にちょっと有り得ないくらい甘くて。
 そして、誰よりも強い―――。


 だから、だろうか。


 その涙を見た時、らしくもなく動揺したのは。




 その日は、雷雨だった。
 雷鳴が轟いて、よく眠れなかった。溜め息を吐いて、蘇芳は身を起こす。
 稲妻は、空を無尽に駆けていて。
 そう言えば、と彼は思い出した。昔は、雷は落ちるしかないものだと思っていた。空に昇る事もあるのだと聞いて、随分と驚いたものだ。
 それを教えてくれた人が誰かなんて、もう忘れて仕舞ったけど。

 暫く布団に入ったまま、彼はぼうっと雷を見ていた。いつまで経っても収まらないそれに、どんな感情を持つでもなく。
「……喉渇いた」
 ぼそり、と呟く。そしてのろのろと立ち上がった。
 雷鳴は響いてはいたが飽く迄も遠く、それはいっそ耳が痛くなる程の静寂にも似ていた。音があるのに静かだと思うのは、我ながら矛盾していると思う。
 その事に眼を伏せ、次いで上げる。
 雷鳴に照らされた、其処に影があった、ような。
 暗い。だから判り難いが、確かに誰か、いる。
 誰か。
「――――」
 おい、と声を掛けようとした時、再び閃光が走った。映し出された姿に、瞠目する。
「アンタ……家人……!?」
 見間違えようもない、淡く癖のある髪。だが、静蘭は反応しなかった。
 不審を感じ、肩に手を置く。
「おい、家人、―――」
 緩やかに振り返った彼に、蘇芳は言葉を失った。頬に光る、ものがある。
 暫しの沈黙。そして、彼は微笑んだ。いつも自分に見せる不敵なそれではなく、その場凌ぎで拵えたような余裕のないもの。
「如何しました、タンタン君?」
「如何、って―――」
 それはアンタだろ、と蘇芳は言った。
 訳が判らないらしい家人の頬に、手を伸ばす。涙を拭ってやると、漸く彼は気付いたらしい。
「……泣いて、いましたか? 私は」
「……何かあったの? ってか、何で俺んちいるのさ?」
 そもそも、彼がこの場にいる筈はないのだ。
「さぁ―――」
「………」
 埒が開かない。
 溜め息を吐いて、兎にも角にも茶でも出そうと彼を呼ぼうとした時、静蘭が口を開いた。
「気が」
「ん?」
「……気が、緩んだのかも知れませんね」
「――――」
 蘇芳は何かを言おうとし、結局何も言えずに黙り込んだ。さっきからこんなのばっかりだ。
「……まぁ―――」
 頭をばりばりと掻きながら。
「良いんじゃない? 偶には」
 俺も嫌じゃないし、とこれは言う寸前で喉の奥に押し留めた。すいと近付く。
「な?」
 額同士を合わせて、言う。静蘭はくすりと笑った。
「そうですね」
 それにいつもの余裕が戻ってきた事に、安堵する。そして身を離そうとした瞬間、唇を掠め取られて、彼は思わず飛び退った。
「……なっ」
「おや、如何しました、タンタン君?」
 悪びれた様子もない。蘇芳は大人しく負けを認めて、静蘭を奥に誘った。
 雷鳴が齎す不自然な静寂は、もう、なくなっていた。








執筆者 太陰弓弦さま

太陰の隠れ宿



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